勝見 敦先生を偲ぶ

勝見 敦先生は2018年1月31日にご逝去されました。先生は日本の災害・救急医療に多大な業績を挙げられ、その貢献は余人をもって代えがたいものです。先生は災害医療ACT研究所の設立と運営にもご尽力くださり、会員一同、感謝の念に堪えません。災害医療ACT研究所はこの3月で設立6年を迎えます。その間、全国行脚にお付き合いくださり、豊富な経験と貴重なノウハウをユーモアとともに多くの人々に伝授してくださいました。災害時の保健医療福祉の新時代を切り開こうという最中に急逝されたことは、我々のみならず社会にとりまことに多大な損失であり、残念でなりません。ここに謹んで哀悼の意を表し、心からご冥福をお祈りいたします。この度、会員より追悼文を寄稿いただきましたのでここに紹介させていただきます。

災害医療ACT研究所

鳥取県災害医療コーディネート研修にて

鳥取県災害医療コーディネート研修にて

拝啓 勝見 敦 先生


寒い日が続いています。
先生に初めてお会いしたのは朝夕めっきり寒くなった新潟小千谷でした。
新潟県中越地震で先生は真っ先に被災地に駆けつけ、山古志村の全村避難を手がけ、小千谷総合体育館という要衝に日赤救護所を設営していらっしゃいました。
その後、日赤が関わった災害救護ではいつもご一緒させていただきました。
東日本大震災時の本社災害対策本部の喧噪は忘れられません。
伊豆大島土砂災害では先遣隊である先生から引継をしていただき、災害救護の複雑さを教えていただきました。また、都支部局長への説明にも同席いたしました。
常総水害、熊本地震災害ではオフサイトでじっくり調整して下さる先生のおかげで赤十字の救護活動が展開できたと思っています。


現在日赤国内救護が存続しているのは、先生のおかげと言っても過言ではありません。
リーダーシップをとりDMATと赤十字をつなぎ、複雑な赤十字の内部調整をも行ってこられました。その結果、一度は決別したDMATと良好な関係を保ちつつ、赤十字の存在感を示せたと思います。日赤DMAT研修会から全国赤十字救護班研修会へと名称は変わりましたが、プログラム作成など研修会の中心にいらしたのは先生です。
勿論、赤十字のみならず日本の災害救護をリードして来られたことは周知のことです。災害医療ACT研究所においても、理事の一人として日本各地で多くの方にコーディネートの神髄を伝授されていらっしゃいました。


先生は災害救護への熱い情熱と、他者への暖かい心情をお持ちでした。研修時の厳しさとは一転して、研修を離れると優しく研修生や我々に接して下さったお姿が思い出されます。今、先生と過ごしたいろんな出来事や場面が思い浮かんできます。仙台のバル、新橋の鮨屋、吉祥寺のイタリアンなど楽しい思い出ばかりです。ただ話題はもっぱら救護のことでした。その時先生から教えていただいたことは、いまも私にとって金言として心の中に残っています。そして救護に生かしております。


去る1月31日、先生の訃報に接しました。一時は回復に向かっていらっしゃると思っておりましたのに残念でなりません。災害救護の多組織化・多様化が進む中、赤十字だけでなく、日本の災害救護は大きな支えを失いました。
またいずれお会いすることもあると思います。その折りには先生が種をまき、育てていただいた災害救護はこんな大木に育ちましたよ、と胸をはってご報告できるよう努力していく所存です。お疲れ様でした。ゆっくりお休み下さい。
勝見先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。


敬具


平成30年2月13日

日本赤十字社医療センター 国内・国際医療救援部 丸山 嘉一  拝


追伸

勝見 敦先生へ


「元気になったら、また仲間に入れてくれよ。」
「もちろんだよ。待ってるぜ。」


私が先生と交わした電話越しでの最期の会話でした。「いやあ、JRも東と西で違うね。西は車椅子に慣れてないなあ。もっとひどかったのはホテルの女の子。可愛かったけどさぁ、きっと車椅子押したことないんだね。あちこちぶつかって大変だったよ。ハハハ。」災害医療ACT研究所からお願いした、二日前の京都での講演に出向いた際の顛末を、病床から面白おかしく話してくれました。それが先生の最期の講演となりました。電話口で被災の現場で奮闘する人々を大切にと力説されていました。


数年前の春、「俺、不治の病になっちまった。」との突然の告白に言葉を失いましたが、その後何事もなかったかのように、我々と日本全国を飛びまわっていただきました。もうそれは叶いません。私の心の中にぽっかりと穴があいています。とはいえこれまで通り楽しく活動を続ける我々とともに在ることが先生の本望なのだと自らに言い聞かせ、悲しみにも寂しさにも負けず、災害医療ACT研究所が社会の役に立つようこれからも努めてまいります。


大卒年が同じで、JATEC、DMAT、日赤、ACT研、そして実災害と長年にわたり先生にはお世話になりっぱなしでしたが、掛け替えのない幸せな時をいただきました。ありがとう、勝見先生。


災害医療ACT研究所 理事長

森野一真

今、勝見先生を想う


2018/2/8 石井 正


ACT研究所事務局から追悼文の募集のメールを読み、即書こうとして気が付いたことがあります。


僕は、勝見先生のパーソナルなことについては、ほぼ何も知りませんでした。


僕がひょんなことから2007年に石巻赤十字病院の医療社会部長になって、図らずも災害医療救護の世界に足を踏み入れたときから、勝見先生とお付き合いをさせていただくようになりましたが、お子さんは何人いらっしゃるのか、とか、どこに住んでいらっしゃるのか、とか、普段どのようなお仕事ぶりなのか、とか、行きつけの店はどこなのか、とか、趣味は何なのか、とか何も知りません。


知っていることと言えば、岩手医大卒業(らしい)こと、出身医局は日本医大の救命救急で、辺見先生門下であること、武蔵野赤十字病院にお勤めであること、奥さまは元テレビ朝日のアナウンサーであること、どうやらボルボに乗っているらしいこと、くらいでしょうか。


けど、お付き合いをさせていただくようになって以降、勝見先生は、僕がかかわる災害医療救護の世界にずっとあたりまえのように存在している人、失礼を顧みず言いかえさせていただければ、僕にとっての「災害医療救護の必須のパーツ」の人でした。まるで家に帰ったら家族がいるように。勝見先生の個人的なことをほとんど知らないのに、それほど、僕の中でその存在感は大きいものでした。


そのお人柄のせいかいつも皆の中心におられ穏やかに意見を取りまとめ、けっしてうそをつかず、激高せず、自己保身と正反対のところにおられ、かといって下ネタ談義も平気でするアンチ堅物で、そして「すべては被災者のために」のみを考え日本の災害医療の向上を真摯に追求し続ける、そんな人だったからでしょうか。


悩みや相談事、しくじりがあるたびに、その都度親切に、やさしく、諭すように教えて頂きました。グチにもよく付き合ってもらいました。ただ「そうか~」と話を聞いてもらえるだけで、僕のこころは給油されました。


僕の大事な、災害医療救護の、そして人生の先生でした。


今、「あたりまえにいる先生」を突然失って、それでも大学の仕事やACT研修会など、やるべきルーティンワークをこなし走り続けていますが、でもやっぱりふと気がつくと「そういえば勝見先生もういないんだ」と考えています。


足腰に何だか力が入らないような喪失感です。大事な大事な羅針盤をなくした気分です。


以前、仕事上の理由でうつになりかけ、精神科医の父にそれがばれた時、こう言われました。


「それでも人生は続く」


そうなんです、勝見先生、たとえあなたがどっかに行ってしまっても、僕の人生は続くんです。どうしようもないさみしさですけど、せめてもう1回お会いできたらと忸怩たる思いですけど、それでもくじけず先生にこれまで教えて頂いたいろいろなことを胸の引き出しに大切にしまい、今後つまずきそうになるたび「そういえば勝見先生はこうおっしゃってたな」と思い起こして乗り越えていこうと思っています。


これまで本当にありがとうございました。先生とご一緒できたことを心から誇りに思っています。


ご冥福を、お祈りいたします。

勝見敦先生が1月31日にご逝去されました。



ご生前に先生には大変お世話になりました。災害対応の世界ではとても有名な先生ですが、研修会ではいつも気さくにお声をかけて頂きました。


先生とは平成26年頃からメールのやり取りを始めました。仕事上のお付き合いというよりは、プライベートなやり取りが多かったのですが、災害で出動したときや、悩んで困った時などには真っ先にお電話を頂きました。先生の存在が心の支えとなっていました。


先生とのメールのやり取りで印象的だったのは、お正月に高校生の息子さんと映画スターウォーズを見に出かけたという内容でした、息子さんが小さい頃から一緒にアニメ映画をよく見に出かけていたとの文面でした、とても微笑ましいメールでした。お仕事がお忙しい中、ご家族との時間を大事にされている姿が垣間見れました。


災害対応の世界で、先生の存在は偉大過ぎて、日本は大きな宝を失ったように思います。正直自分個人の力では何も出来ません、先生の意志を引き継いで行けるような世の中になるといいと思います。


ご生前のご指導に感謝いたします。
ご功績に敬意を表し心からご冥福をお祈りいたします。


山梨県 重光明叡

勝見先生の訃報に接して

鳥取県災害医療コーディネート研修にて



先生の災害医療の講義は、避難所支援に携わる鍼灸師に「命の重み」を伝えるものでした。


鍼灸師による災害活動の組織化と災害時の鍼灸活動のため、災害医療ACT研究所に研修講師の依頼をしたところ、武蔵野赤十字病院の勝見敦先生が引き受けて下さることになり、平成29年12月16日に京都市にて『災害時の避難所評価について』と題して研修を行うことができました。


勝見先生とは災害医療コーディネーター研修で何度かお会いしいてましたが、とても優しく、いつもジョークとユーモアで周りを和ませる名人でした。しかし先生は、日本の災害医療現場の最前線を支えるお立場であり、鍼灸師への研修講師として、わざわざ東京から京都までご足労いただくことに、私たちも恐縮しておりました。しかし、勝見先生は「俺、鍼灸そのものは良く知らないけど、医療ニーズが少ないフェースでは、けっこう鍼灸師って活躍してくれているんだよね」と言われ、何ヶ月も前から研修の準備にかかって下さいました。


その後も先生とは何度もお電話で打合せいたしましたが、ご自身が病気であることはちっともお話にならなかったので、私は全く知りませんでした。そして、研修前日になって勝見先生からお電話をいただき、「出来れば車椅子を用意してもらえないかなぁ」と申し出されたことには本当にびっくりしました。ちょうど1か月前に大阪の研修でお会いしたときは普通に歩いておられたのに、本当にお立ちなることも難しく、加えてお腹の調子が悪く食事も満足にとれないようでした。なのに、京都の会場まで奥様に付き添われてお越し下さったのです。


そして、災害現場では素人同然の鍼灸師のために災害医療と避難所の実際について、分かりやすいスライドを用意していただき、いつものジョークやユーモアを交えながら講義をして下さいました。普段目にすることの出来ない災害急性期のことも、かみ砕いて説明をしていただき、鍼灸師による“避難生活の疲労や災害ストレスの緩和”といった被災者援助の可能性を、避難所での医療・福祉・健康支援との連携を期待するワークショップを含めた90分の研修をお勤めいただきました。


勝見先生の思いは常に「人を救う」ことであり、どうしても救えなかった命を思い出して涙ぐまれる姿に、先生が「災害医療」の体制作りにも貢献された原動力は「少しでも多くの人を救いたい」という願いを実現することとして、受講した鍼灸師の心に大きく響きました。


講義終了後に「いやあ、よかった。やりきることが出来たよ。俺、みんなに伝えたかったんだ・・。本当にありがとう。」と、にこやかに握手して下さいました。いつもの笑顔ではありましたが、お体の具合はそんなに良くなかったように思われました。その研修の翌日、お礼の電話をしたところ、「いやあ、俺ね、今日から入院することにしたんだよ」とお話しになり、不安を感じながらもご容体を案じておりました。


勝見先生は、最後の講義として全人的な災害支援を鍼灸師に伝えて下さいました。鍼灸師は災害時においても被災者だけでなく、医療・保険・福祉の支援者と多く接する職種であり、全人的な支援の可能性をもっていることを、そして救護班が「命の重み」を考えながらの災害支援を私たちに教えて下さいました。先生の「伝えたかった」ことを承け継ぎ、私たちにできる援助が形になっていくよう、これからも努力して参りたいと思います。


どうか彼の岸の向こうから、私たちを見守っていてください。
 勝見先生、本当に有り難うございました。

NPO法人鍼灸地域支援ネット 理事長 日比泰広